2017年12月25日月曜日

真珠は“月”か?

インド占星術では、
“月”は宝石で言えば真珠だと言われている。
“月”のパワーを強くしたい時は、真珠を身につけよ、という事だそうだ。

しかしそもそも宝石とは、
気が遠くなるほどの長い年月を経て生成されるものである。
(人工宝石は別として)
これは土星のイメージに近い。

ましてや真珠となると、
貝が、自分の体内の奥まで異物が侵入してしまった場合に発動させる
免疫反応の結果であり、
それも、その貝が1年以上ずっと障害物を抱えたまま、その結果として生じてくるものである。
(吐き出せる位置にある異物なら、すぐに吐き出すが、奥へ入りすぎた異物はもはや吐き出す事ができない。ゆえに体内に抱え続ける。)
真珠はその愛らしい見た目とは裏腹に、
本質的にはほとんど土星ではないかと、疑問が浮かぶ。
疾病のある貝の産物。
月とはイメージが程遠い。

そもそも、様々な占星術が教えてくれる宝石の話には、
ふに落ちない点が多い。
宝石の見た目のイメージだけで、それぞれの惑星と結びつけているだけなのでは?
と、考えてしまう。

あまりにも不勉強なため、これ以上は何とも書けないが、
少なくとも真珠は土星じゃなかろうか。

そんな事をふと考えた今日。

2017年12月5日火曜日

山羊座(土星)と骨董品

アンタルダシャーが土星期に入ってから、
今日までしばらく過ごしてきたが、
やっとまた1つのことを自覚した。
土星期になるたびに、骨董品との縁が濃くなる。

それは、私の土星が吉星化しているせいもあるだろうが、
それよりもっと決定的なのは、
分割図全般にわたり私の山羊座が強いせいだと思い至った。
土星といえは山羊座および水瓶座の主星だが、
中でも山羊座は、とにかく美術品と縁が強い星座である。
そのことは山羊座をラグナとした場合に、
金星が5室10室を同時支配している事からも、見てとれる。

今回のアンタルダシャー土星期には、
なぜか特に、顕著に美術品との縁が浮上してきている。
土星期に入る直前からそうだったが、
中でも、先日に街で体験したことが決定的だった。

その日私は、友人の友人である美術商から食事に誘われた。
(この美術商も、土星期に入ってから知り合った相手である。)
それが、たまたま大阪に用ができたとの事で、
近くに来たので食事でも、という話だった。

お互い気ままな性格であるため、
適当に待ち合わせてブラブラと街を歩きながら店を選ぶことにした。
ところが、ひとしきりブラブラしたが、なかなか食べる店が決まらず、
小さなバーばかりが並ぶ場所へ辿りついた。
食事はそっちのけで好奇心の向くまま、
立ち並ぶバーの外観を眺めてまわった後、1だけ
分厚い木のドアをあけて店に入ってみた。

それは小さなスペースに、骨董品や特殊な作品が陳列された
一目みて異様な空間だった。
バーとは言うものの、ロクに飲み物も置いておらず、実態は完全に趣味の美術館である。
2人ともすっかり魅了され、特に美術商の方はテンションが跳ね上がり、子供のように大はしゃぎ。
また骨董品の数々は、高齢の店主が海外で高値で買い集めてきたものだったが、
「気に入ったものがあるなら無料で持って帰ってくれ」と言う。
今月でバーを閉店するし、財産を引き継ぐ子孫もいない、色々と処理するしかない、という話だった。
どこかの骨董品屋に、適当な安値で売ってお金にしてもしょうがない、
それなら好いてくれる人に無料で持って帰ってもらいたい、ということである。
また、陳列している作品群の独特さゆえ、テレビから取材依頼が来ること等もあったそうだが、それも色々と面倒くさいため断ったの事。

なんとも絶妙なタイミングで、
2人がその店に飛び込んだものである。
その日、店主はまだ店を開いたばかりだったので他の客もおらず、
ひとしきり話が盛り上がった。
そして、いくつか気に入った物も頂いた。

美術商の方はと言えば、いったん頂いた物を知人宅へ持って帰ったのち、
夜が明けない内にまたそのバーへ戻って、朝まで店主と談笑したそうだ。

なんとも面白い日だったが、
後で冷静に考えているうちに、これはどうも土星ダシャーのせいだぞと思い至った。
そうでなくとも最近は、仕事でも骨董品関係が急増しており、
そうでない仕事の方が嘘のように減ってきている。
山羊座の本領発揮中、という事だろうか。

土星はあまり好かれない星だが、良い面もある。
特に私は、土星が好きだ。
今回のことで、もっと好きになった気がする。

またしばらく、様子見をしようと思う。

2017年10月8日日曜日

土星期

アンタルダシャーと、
プラティアンタルダシャーが、ともに土星期に入っている。
予測していた通り、
クライアントの組織の一つにほとんど取り込まれた状態で、最近の仕事が進行している。
私は土星期に入ると、組織的に働く(他人と協力しあって働く)傾向が強くなり、
組織の中の1つの歯車になってしまうため、何かと自由がきかなくなる。
いかにも土星的だ。
しかしその分、仕事としては大きな仕事に関わるようになるし、収入は安定する。
もっとも、そうした働き方は本来の私の働き方とは異なるため、
なるべくそうならないように、土星期に入る前から気をつけていた。
にも関わらず、結局、取り込まれた所をみると、
やはりダシャーによる予測は馬鹿にできないなと思うばかり。

もうしばらくすれば、
一つの大きな案件がひと段落する、
そうなれば私は組織的な役割から解放されるか、自ら離脱する流れになると考えられる。
(そしてちょうど、プラティアンタルダシャーも切り替わる。)

そんな中、
たまに自分のチャートに現れている9室の謎について思い返しているが、
相変わらず何も思いつかない。


2017年8月27日日曜日

ラーフ期の活かし方

過去に体験したラーフ期(アンタルダシャーや、プラティアンタルダシャー)を通じて、1つ、これは必ず心がけるべきだと思った事がある。
ラーフ期間に、思わぬ形で(思わぬ幸運により)得た物事は、ラーフ期が過ぎると見事に消えてなくなる、特に金銭面でその傾向が強かった。
ところが同じ金銭でも、全く無傷だったものもある。
それは、同じラーフ期の間に、自分の努力を通じて得た分のお金である。
そちらの方が不思議なほど無傷だったので、思わぬ収入の方が消滅したところで、窮地とは程遠い。
そこで、ラーフ期には、ラーフのパワーを活かして普段なら難しいような努力をするべきだと考えるようになった。
私のようにラーフが吉星化しているなら、ラーフ期に費やした努力は必ず金銭になって跳ね返ってくるはずである。それも、きちんと残ってゆく財産だ。
もっとも、その財産を元手にして博打などに手を出すと、これはいけない。
恐らく最初の頃は博打も大当たりするだろうし(ラーフの力による)、大金に化けるだろうが、それではせっかく努力で得た金銭の本質が、悪いほうへ変質してしまいかねない。そうなれば、ラーフ期の終わり頃には根こそぎ金銭が消えてしまうだろう。
なんだか、日本の1980年代のバブルの話をしているようだ。
もともと地道で無欲な人にとっては、まったく無用の心配である。

2017年8月10日木曜日

ブログ小休止

プラティアンタルダシャーが、
Ra(ラーフ)になった影響だろう、
仕事の流れが止まらなくなり、
占いに関する思考の方は休止している。

私のラーフ期は、とにかく仕事が忙しい。
また、体調も劇的によくなる。
プラティアンタル程度では、さほど影響は出ないと予測していたが、
その予測に反して、明らかな体力の向上と仕事の増加(もっと言えば、頭の回転力の向上)が見られた。

初めて読む人のために説明すると、
私のラーフは、かなり吉星化している。

また、
私のプラティアンタルダシャーが次に切り替わる際、
アンタルダシャーも土星へ切り替わるが、

これも、ちょっと違うタイプの忙しさが出てくる時期になる。
こまごました仕事よりも、
どちらかと言うと大きな案件を、手分けしてこなすような時期だ。

しばらく、ブログはお休みするかも知れない。

2017年7月15日土曜日

火星6室

いろいろ書く課題はたまっていますが、
仕事の方が優先なので、停滞させてます。

ところで、マハーダシャーが火星期に入って、
体力的にも金銭的にも余裕が出てきたのを機に、
いろいろと習い事に興味を持つようになり、
今では体育会系と文化系、それぞれ1種類を習っています。

そこで分かったのですが、
生徒さん達は、1年も続けずに辞めていく人が大半ですね。
どちらの教室でも、私のように根気よく続ける人は珍しいそうで、
だんだん、特別待遇のような扱いになってきました。

私は普通に続けているだけのつもりなので、
どうしてそんなに生徒が入れ替わるのかと、
不思議な気持ちで眺めています。

マハーダシャー火星期なので、
達成欲求が強まっている(火星的)、というのもあるんでしょうが、
6室火星(ナバムシャ)というのも、やはりポイントだという気がします。

火星様様。

2017年6月23日金曜日

古い記録の歪曲

古い記録は、歴史も含め、年月とともに歪曲される宿命にある。
悪意ある1パーセントの人間と、
善意の99パーセントの人間の手によるもので、
善人の方が圧倒的に多いため、歪曲情報は信憑性を疑われることなく、
むしろ年月を経るほどに信憑性を高めながら、広く公知されるようになる。

1人の人間が、年月とともに神格化されてしまうのは最も分かりやすい事例だが、
しかし決して、
熱心なキリスト教徒に「キリストはただの人間だった」と言ってはならない。
それは無礼きわまりなく、信仰者の尊厳を一方的に傷つける発言である。
これと全く同様に、
仏教家に「釈迦はただのお金持ちの息子じゃないか」と言うのも攻撃的過ぎるし、
神道家に「天照大神はただの巫女じゃないか」と言うのももちろん御法度である。
エリートの政治家だろうと、教師だろうと、法律家だろうと、医師だろうと、
人類はアダムとイブから始まったと公言する現代人は別に珍しくない、ただし日本ではあまり見かけない。
古い記録や伝統は、大なり小なり必ず歪曲される。
古き良き美しい文化だと思われている「正座」も、
もともとは奴隷がやらされていた、服従者の坐り方である。
それ以前は男性はもちろんの事、女性でも「胡坐(あぐら)」が通例だった。
しかし信仰する者にとっては、真実の情報よりも、歪曲されて伝承されている情報の方が100万倍 重要であり、それを万能の法則だと思い込む、それが人である。

しかしこう言うと、
「やはり物事は何でも原典が重要なのだ」と、
これまた極端に考える人達が出てくる。

歪曲された情報の上に、新たな文化が形成されてゆき、
その新たな文化の上に、新しい発想や知恵が生まれてゆく。
「原典こそ神」という極端な考え方は、そうした文化の発展の全てを、否定してしまうため、
どうにも退廃的である。

最も合理的な道は、
原典をふまえた上で、歪曲された現代の情報(および文化)を最大限に活かす事だと、私は思う。

さてここから本題・・・と言いたかった所だが、
色々考えている内に、ちょっと問題発言になりそうな気がしてきたので、
ここまでで止めておこう・・・。